歩兵第123連隊について、祖父の体験の伝聞メモ

祖父は、歩兵第123連隊に参加していました。親族から聞いていたもの、ほか自分で調べたもので主観的なものについてここに記録しておきます(客観的な舞台の動向などはウィキペディアに書きました。なにか調べ物をしている方の参考になればと思います。

歩兵第123連隊: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A9%E5%85%B5%E7%AC%AC123%E9%80%A3%E9%9A%8A

祖父の話

祖父は戦後、戦争の話を話したかったようだけど、家族は余り聞きたがっておらず、そんなに記録は残っていないです(物とかも祖父がなくなったあと処分したようなので)。で、自分も直接は聞いておらず(もう亡くなっているため)、家族がちらほら聞いたものを又聞き聞いたものにすぎない、という点だけ留保ください。まだ生きていたら色々聞きたかった。以下はその記録です。

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  • 祖父は、通訳をしていた。(中国では軍務記録では砲兵をしていたようなので、なぜ「通訳」となっているのかは不明。)
  • 当時占領していたオランダ人はインドネシア人に同席することを許さなかったが、祖父がふつうに同席を望んだところ、とても驚かれた。
  • インドネシアの方は好意的で、終戦後日本に帰る際(記録によると、終戦後から1年以上ははいたらしい。1946年に戻ってきているので。このへんもいつか調べたい。)、インドネシアに残らないか、家族として迎えたいと言われたらしいが、日本に家族がいるので、ということで帰ることにしたらしい。
  • 日本に帰ってからも、港にインドネシアの船がきたのを聞くと見に行っては家に招待しご飯をふるまったそうです(祖母からみれば、あれこれ食事などを作らないといけないから好意的には思っていなかったそうです。)
  • また、戦友会?(ネットを見るにあるようだけど、まだ機能しているのかはわからない)もあったそうで、みなでインドネシアに行こうという話もあったようですが、まとめ役のかた?(連隊長?)が亡くなって立ち消えになったそうです。

感想

インドネシアに派遣された部隊はろくに戦闘もせずいいね、と当時言われていたようです。たしかに歴史に残るような「戦闘」は起きていないし戦争末期もインドネシアはスルーされてそのまま沖縄・本土攻撃となったため比較的被害は少なかったようですが、書類を見るにそれなりに戦闘は起きているし、なくなった人、傷ついた人はおり、楽してるね、という言い回しはどうなん?とおもいました。

それに、インドネシアには、歩兵第123連隊のほかに、2つの連隊が行っている・いく予定であったけれど、1つの連隊(歩兵第147連隊)はインドネシアに向かっている途上で潜水艦の攻撃にあってて連隊長ふくめかなりのかたがなくなっているし、もう一方の部隊(歩兵第145連隊)は輸送船が足らず待機→硫黄島に転身となり連隊が全滅しているので、戦闘が緩かった=インドネシアは楽はどうなんとおもいます。

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