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22/9からの北九州市平和公園の参道樹木・街路樹伐採の記録

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平和公園の参道の樹木が伐採されました。その記録としてここに残しておきます。 。 2022年9月頃、伐採告知の張り紙がされる 樹木撤去のお知らせ 撤去するのは3本です(この記述は、おそらくあとから追加) この樹木は、三町内会(妙見町・足立南・黒原)からの要望を受け、通学児童等、歩行者の安全を確保するため、撤去する予定です。 工事中は、大変ご迷惑をおかけしますが、ご理解とご協力をよろしくお願いします。 伐採対象となった3本の樹木 根本以外切られたあと(2022年12月撮影) 12月7日撮影 その後 この根本も取り除かれ、アスファルトで固められた。 たしかにその後通行はしやすくなった。 ただもともとは平和公園を祀るためのもののはずで、すごくじゃまになるわけでもなかったので個人的に伐採にやや疑問が残った。なのでここに残しておく。

歩兵第123連隊について、祖父の体験の伝聞メモ

祖父は、歩兵第123連隊に参加していました。親族から聞いていたもの、ほか自分で調べたもので主観的なものについてここに記録しておきます(客観的な舞台の動向などはウィキペディアに書きました。なにか調べ物をしている方の参考になればと思います。 歩兵第123連隊:  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A9%E5%85%B5%E7%AC%AC123%E9%80%A3%E9%9A%8A 祖父の話 祖父は戦後、戦争の話を話したかったようだけど、家族は余り聞きたがっておらず、そんなに記録は残っていないです(物とかも祖父がなくなったあと処分したようなので)。で、自分も直接は聞いておらず(もう亡くなっているため)、家族がちらほら聞いたものを又聞き聞いたものにすぎない、という点だけ留保ください。まだ生きていたら色々聞きたかった。以下はその記録です。 --- 祖父は、通訳をしていた。(中国では軍務記録では砲兵をしていたようなので、なぜ「通訳」となっているのかは不明。) 当時占領していたオランダ人はインドネシア人に同席することを許さなかったが、祖父がふつうに同席を望んだところ、とても驚かれた。 インドネシアの方は好意的で、終戦後日本に帰る際(記録によると、終戦後から1年以上ははいたらしい。1946年に戻ってきているので。このへんもいつか調べたい。)、インドネシアに残らないか、家族として迎えたいと言われたらしいが、日本に家族がいるので、ということで帰ることにしたらしい。 日本に帰ってからも、港にインドネシアの船がきたのを聞くと見に行っては家に招待しご飯をふるまったそうです(祖母からみれば、あれこれ食事などを作らないといけないから好意的には思っていなかったそうです。) また、戦友会?(ネットを見るにあるようだけど、まだ機能しているのかはわからない)もあったそうで、みなでインドネシアに行こうという話もあったようですが、まとめ役のかた?(連隊長?)が亡くなって立ち消えになったそうです。 感想 インドネシアに派遣された部隊はろくに戦闘もせずいいね、と当時言われていたようです。たしかに歴史に残るような「戦闘」は起きていないし戦争末期もインドネシアはスルーされてそのまま沖縄・本土攻撃となったため比較的被害は少なかったようですが、書類を見るにそれなりに戦闘は起きている

北九州・小倉の陸軍(軍用)墓地調査メモ

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はじめに  小倉・北九州には、陸軍(軍用)墓地が3つあることは確認されているが、どんな感じであったかは現存していないためか詳細な情報がネット上にはみつからない(正確には、あるサイトが当たるが、そこも本からの引用らしく詳細は書かれていない。他のサイトの記述もこのサイトからの孫引きだらけな)ので、個人的に調べてみたところ、ちらほら資料が見つかったのでメモとして書き残しておく(私自身は、研究者でもなくふと関心を頂いた一般人なので内容について正確さにかけることをご了承願いたい。)